麻奈先生のブログ~木下式の子育て論~
by k-onkan
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作者について
木下式音感教育法認定講師
  木下麻奈
     
 木下式の基本は、幼児期に「躾・規律」を教え、高度な音楽基礎教育を施すことです。詳しくは、ホームページをご覧ください。http://www.kinoshita-onkan.com

イラスト:「ケイ&シュート」
 By ケンイチ・シライ
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育てる者になれているか?

最近、「「育てられる者」から「育てる者」へ―関係発達の視点から著 鯨岡峻(NHKブックス)」という本を読みました。鯨岡先生は中京大学の発達心理学を教える著名な方で、「人は育てられて育ち、人を育てることを通して自らも育てられる」。この関係論的な考え方を基礎に、従来の個体能力論的な発達論を批判し、人の生涯を見据えた発達理論の新たな構築を目指そうとされている方です。

e0143522_19312687.jpg一般的に、子供が問題を持つと、発達心理学の分野では、その個人の感情にばかり目を向けることに私は長年、疑問を感じてきました。その結果、問題を持つ子のわがままを助長させたり、自立的な社会生活ができなくなったりすることもあります。しかし、鯨岡先生の本を読み、発達心理学の世界にも、いろいろな考えの先生がいるのだと再認識しました。

一般的に、子供に問題があると、たいてい育てた親が責められ、その子供の心だけを慮ることように思いますが、長年、子どもたちと深くつきあって思うのは、子供をそのように育てた親御さんもまた、その前の世代の親から深く影響を受けて子供を育てているという連鎖に気付きます。特定の子供だけを良くしようと思っても、親や家庭のあり方が変わらなければ子供は救われません。周囲が一緒に悩んだりすることが、大事なことなのだと思います。

子供に問題が起こることが、いけないのではなく、その問題を放置してしまったり、解決を他人に任せにするのが問題なのです。また、一時的に、その家庭に問題が生じたとしても、家族が一丸となって解決するために努力をすることで、深い絆が生まれたりすることもある、そんなことを考えさせられた良書でした。
by k-onkan | 2011-06-30 19:31 | 子育て | Comments(2)

恥をかかせない親心

先週の土曜日、児童部の子供たちはピアノの試聴会があり、保護者に演奏を聴いていただきました。直前まで間違えずに弾いていた子も、いざ、大勢の保護者の前となると、その緊張感から間違えたり、忘れたりします。練習通りにいかないのが、本番であり、真の性格の強さ、弱さが分かるものです。十分に練習したつもりでも、何が起こるか分からないのですから、練習が足りずに、舞台に出るほど、恐ろしいことはないのです。

e0143522_19212775.jpg実は、試聴会直前、「今回は弾くべきではない」と、演奏を止めさせた男の子がいました。6年生のお子さんです。練習の段階で、弾けていない箇所が多くあり、とても、大勢の前で弾かせる状態ではありませんでした。一人だけ、弾かせてもらえなかったと聞くと、「他の子と差をつけられて、かわいそう」と思われるかもしれません。しかし、練習不足で弾かせて、「自分は他の人よりダメだ」と劣等感を持たせるより、ちゃんと練習させ、きちんと弾けるようになってから発表させ、「自分だって努力すればできるのだ」と思わせる方が、よほど教育的配慮があると私たちは思っています。平等を重んじて、皆と同じ日にひどい演奏を聴かせることには、何の意味もありません。

一般の運動会や学芸会と楽院の会の一番大きな違いは、楽院で何かを発表する時は、いつも真剣で遊び気分であってはならないということがあります。「結果はどうあれ、参加することに意義がある」という浮かれ気分は、一切ありません。それぞれに能力差があったとしても、自分の中で、一番、良い状態を発揮することが、成果なのです。

たとえ、練習が足りないのが自己責任であっても、子供は大勢の前で恥をかくのが好きではありません。まして、6年生ともなれば、学校行事なども忙しくなり、練習が思うようにできないこともあるでしょう。それでも、その中で、今、できる最大限の努力をさせ、悔いなく卒業させたいのです。男の子が音楽を心のよりどころにするのは、もっと大きくなってから。今は、他の子より進歩が多少、遅れていても、いつか必ず、音楽が心を支えてくれる日が来るものです。その時のために、一つの曲をきちんと仕上げ自信に変えることが、大事なことなのです。

春咲く花もあれば、冬咲く花もあります。遅咲きの花が、見事な花を咲かせることもあるでしょう。皆一緒に咲かなくても良いのだと思います。でも、いつ咲くか分からないから、努力しなくて良いという意味ではありません。咲かせる努力をしていても、いつ咲くか分からないからこそ、咲く努力をしなければならないのだと思うのです。
by k-onkan | 2011-06-29 19:20 | 児童 | Comments(0)

能力を引き出すということ

最近、ツイッターで、興味深いことを発見しました。それは、発達障害の世界でも、「発達障害がある子は脳が異なるから仕方ないのだ。そのまま受け入れてなさい」という容認派と「発達に障害があっても、目標を持って努力することで、達成感はあるから、子供のできることを見つける」という修業派に分かれるということです。

e0143522_1151612.jpg障害も軽度から重度があるので、一概に全て同じに語ることはできませんが、「命があって、今日、ここにいてくれるだけで幸せ」という人もあれば、軽度の障害で努力次第では、将来、自立支援が可能な人がいるはずです。全てを同じに括って、「何もしないで、そのままを受け入れる」という考えだけでは乱暴だと思います。

健常に発達する子供の世界でも、似たようなことが起こったと感じます。子供にはいろいろな子がいて、特技が異なり、個性も異なってよいと思いますが、この20年間、「のびのび教育」「ゆとり教育」によって、全ての子供の能力が著しく低下させられました。その上、子供のわがままも、勝手行動も全て「ありのままの子供の姿」として受け入れられ、子供にできないことがあっても、無理にできるようにしなくてよいという間違った方向に導かれたと感じます。その結果、大人になっても、自立できなかったり、心の弱さを克服できないように育てられた人が増えたと感じます。

世の中で、弱者の気持ちを考えることも大事ですが、弱者を支えるためには、世の中を良い方向に導くことができる賢く強い人の存在も必要です。弱者に優しいようにと、全てを平等にしようと考えることで、優秀になる可能性のある人が、優秀になれないような教育はやはり好ましくないと私は個人的に思います。発達障害があっても、なくても、それぞれが、よくなろうと努力して進化したいと思うことが大事だと思うのです。そして、忘れてはならないのは、その「ものさし」は、一つではないということではないでしょうか。

そんなことを思っていた時に、昨年、TACチャイルドクラブの園長先生からうかがったこんな話を思い出しました。正確な距離などの記憶が曖昧なのですが、それは、ある幼稚園での運動会の話でした。園児たちは50メートル走を行なうことになっていたそうです。その中に、障害のあるお子さんがあり、園長先生は、50メートル走の際、その子には自力で歩ける距離(何メートルだったから記憶が曖昧なのです)を一人で歩かせて、ゴールさせようと考えられました。

すると、教諭から、「他の子が50メートルなのに、その子だけ、短いのでは可哀相。その子も同じ距離でなければ・・・」と反対が出たというのです。しかし、立って歩くのがやっとの子供に皆と同じく50メートル走らせるのは、酷な話です。「平等が大事」といっても、自由に走り回れる子供と、立つのがやっとの子供は残念ながら、持っている能力が違うのです。大事なのは、それぞれの子供ができる精一杯に取り組むことと園長先生は言われます。他の園児が50メートルを全力疾走する際、この子が歩ける最大の距離を自力で歩いて参加することで、一緒に出場することこそが、この子らの平等だと思うのですが、耳にばかり優しい「平等」という言葉を基準にすると、とんでもないことがおきてしまいます。

賢い子供を育てようと日々、音感教育を行なっていますが、それは、全員を同じ型にはまった優秀な子供にしようというのではありません。どんなに努力しても、全ての子供の能力や才能は異なるものです。その中で、それぞれの持つ可能性を最大限に引き出すという地道な作業は、発達障害の修業派の方の考えと近いかもしれないと思ったりしたのでした。
by k-onkan | 2011-06-28 11:49 | 教育 | Comments(0)

可愛くなってきた・・・

甥Kが2歳を目前に、少しですが、心の成長を感じられるようになりました。自分以外の人の反応も観察できるようになったのです。ここ数週間、私から何度も叱られ、その都度、まゆみ先生に諭され、純子先生には望クラスで授業中に叱られ、「勉強をしない人は、千葉に遊びに来てはいけない」と予定していたお泊りが中止になったこともありました。もちろん、家庭では家庭で両親から叱られたり、諭されたり、褒められたりしてきたはずです。この「叱られ諭され褒められ・・・、」の繰り返しによって、人としての可愛げが出てきたのかもしれません。

我が家は、幼児相手でも「挨拶をせよ」「返事をせよ」「やるべきことをやれ」「やるなら、一生懸命やれ」「わがままは受け入れない」等、一般より厳しいことを求めていまますが、良くも悪くも100パーセント、子供を真正面から、受けとめ育てていると感じます。子供の素の姿に悪い面があれば、どんなことをしてもそれを改善してやろうと思いますし、良い面があれば、それをもっと引き出し、大げさなまでに褒める・・・。原始的ですが、幼児期の子供には喜怒哀楽ある子育てはわかりやすいと言えます。

この「叱られ褒められ・・・」の成果で、Kは、最近、「まぁちゃん、すき~」とお世辞まで言えるようになりました。実は、最近、散歩に連れ出したり、冷たい食べ物を与えたりしたという「仕掛け」もありますが、子供の言葉でも「好き」と言われると悪い気がする人はいないものです。私も「Kちゃん、良い子になったね~。かわいいね~」と喜びの声をあげて見せます。すると、その反応を見て、もっと可愛くしようとします。大人とのやりとりで、子供は言葉の使い方や表現の仕方を学んでいると感じます。

e0143522_0284829.jpgもちろん、悪いことをすれば、いつも通り、大きな声で本気で怒る姿も見せますが、良いことをすれば、その都度、大げさに感心し、愛情表現にはスキンシップも欠かしません。気づくと、それは、自分が子どもの時に、親からされた通りの方法なのだと気付きます。子供を育てることによって、私たちも大人もまた育てられていると思います。それは、時に親の気持ちを理解することであったり、かつて子供だった時の気持ちを思い出したりと、常に新たな発見があるものです。

それにしても、一人の人間を全うに育てるためには、多くの人との関わりが大事であり、親だけ、家族だけで、全うに育てるのは本当に難しいのだと感じされられます。子供の年齢が低いと、お母さんとベッタリになり、他人を受け入れなくなりがちですが、母子関係を基本にして、他人との関わりも仕向けるのも大事な教育であると感じます。但し、母子関係の基本が形成されない内に他人ばかりに面倒を見させようと、子供を突き放すことは違う歪みを生じさせますので、ご注意を・・・。あくまで基本には親子、家族があって、それから他人や社会との関わりなのだと思うのです。
by k-onkan | 2011-06-27 22:27 | 幼児 | Comments(0)

勉強だけじゃダメ!

公立の中高一貫校を受験して通うRちゃんに、「中学はどう?面白い?」と声をかけると、びっくりする答えが返ってきました。「面白いです。少なくても、クラスにカタカナが読めないという子がいないので授業が面白くなりました」。受験を乗り越えて入学した学校には学力差がなく勉強しやすいことを言っているようですが、この答えに私の方が驚いてしまいました。

e0143522_6344282.jpg私の時代には公立小学校に6年通って、カタカナが読めない子供はいませんでした。Rちゃんが苦労して中高一貫の公立を受験した理由が分かりました。個々の能力に多少の差があるのは、致し方ないとしても、小学校に通ってカタカナが読めない子がいるとは、なんとも残念な感じがします。20年以上前ですが、初めて、アメリカに行った際、アメリカには字の読み書きができない人がいるときいてそれは驚いたものです。日本は義務教育制度によって、識字率が他のどの国よりも高かったはずなのですが・・・。

「勉強すること」を前提に考えると、個々の能力があまりにかけ離れていると、教える方も教わる方もたいへんです。子供にとっては、能力のあった場所で勉強できることが、一番、幸せなことかもしれないと思います。「受験」だけに重きを置きたくはありませんが、その必要性も否めないのが現状であるのです。

先日、ある教育関係の方から、私立中学の興味深いお話をうかがいました。それは、中学受験で入学してきた生徒と、付属からあがった生徒の違いについてです。「中学受験を経た子供たちは、能力も一定で力がある。反して、幼稚園、小学校など付属からの子ども達の学力差が大きく、上と下では本当に天と地ほどの差がある。しかし、そこに多様性があり、学力以外で評価されるべき点も多い」ということでした。小学校から私立でのびのびと、スポーツや趣味などを体験した子供たちは、中学受験のために勉強だけを目的にした子供よりある意味、幸せなのだと思います。

特に、興味深かったことは、「ドッジボールができない子が多い。味方同士、敵同士、ボールをあうんの呼吸でパスすることができない」ということでした。運動能力に問題があるのではなく、相手の気持ちを察する能力が欠けていたり、瞬時に他人と打ち解け、協力したりという柔軟性や融通が聞かないのでしょう。これは、勉強だけでは備わらない能力というべきものかもしれません。

子供たちには、中学受験をするにしても、小学校6年間を勉強一色にはしないでやりたいものです。社会に出て「できる」と評価される人は、知恵があったり、生きる力があって、他人とうまくやれる人、いろいろなことに興味があり、芸術やスポーツにも造詣が深い人であったりするものです。「勉強ができれば、他のことが何もできなくて良い」というのも困りものです。やはり、子供の時代は、勉強と同じくらい、多様な経験をさせたいものだと思うのです。
by k-onkan | 2011-06-26 23:33 | 児童 | Comments(0)

明後日は、水族館へ

お気づきの方もあるかもしれませんが、楽院は、月曜日をお休みにしています。何年か前から、国民の休日(成人の日、海の日、敬老の日、体育の日)が月曜日になりました。それによって、月曜日にクラスを設定すると、他の曜日と比べ極端に授業数が少なくなりました。そのため、数年前から月曜日にはクラスを作らず、補講や体験授業、地方出張をする日にしていたのです。今年度は首都圏の企業、家庭に節電が求められいるため、全面的に月曜日を定休にしました。電話をいただくと、出張先の私の携帯電話に転送されたり、「ただいま電話に出ることができません」のメッセージにつなるのはそのためです。(ご無礼をお赦しください)

e0143522_10564791.jpgさて、明後日の月曜日は夏休みに行う特別クラス(預かり保育)のために、大垣先生と、「しながわ水族館」に下見に行く予定です。「しながわ水族館」は都内で手近な場所にありますが、子供たち大勢を連れて出かける際には、事前に引率者がその場所に出向いておく必要があります。お手洗いの場所、休憩をする場所など、子供の緊急事態に対応できるようにしなければならないからです。

お預かりの最終日、皆で一緒に出かける日を作ったのには理由があります。子供たちが楽院に通う4日間、毎日、楽院のビルの中だけで活動させるのは、あまりにかわいそうに思えたからです。尾瀬に行けば最終日は、班で自由に行動させたり、お買い物体験をさせたりという時間があります。私たちは、そこで、子供たちが、「算数の計算はできても、お金の計算ができなかったり、消費税を知らなかったり、買い物の仕方が分からず、おつりをもらわずに帰ってきたり」等など、驚くことが多々あります。けれど、楽院の建物の中ではそうしたことは体験させられません。(たまに、お迎えのコンビニでお買い物体験している楽院児は見かけますが・・・)

とは言っても、今年の夏、首都圏で外に連れ出すには、多くの苦労があります。まず、電力不足でどこも節電をしていて暑いこと。また、昼間の電車は本数を減らしているため、乗り換えも簡単ではないこと。大垣先生曰く、大勢の子供を連れて電車を乗り換えるためには、最低15分の時間が必要なのだそうです。その行程も下見をしなければ、怖くて出かけられません。

それでも、できるだけ涼しい場所を選び、子供たちを電車に乗せて連れて出さなければと思ったのは、数週間前、子供たちからこんな言葉を聞いたからです。「携帯で電話すれば、どこにいてもママが迎えにきてくれる。自分がどこにいるか分からなくても大丈夫」。世の中が便利になったのは、結構なことですが、子供たちから生きる知恵を奪っていると感じました。3ヶ月の震災時には、携帯もつながらなくなりました。子供たちには、自分の住む東京の路線図の見方くらいは教えなければと思います。そんなわけで明後日は大垣先生とお出かけなのです。
by k-onkan | 2011-06-25 23:56 | 楽院だより | Comments(0)

2番目は強いのか、失礼なのか?

今日、1歳11ヶ月の甥Kが私に足蹴りを入れて、大騒動になりました。平素、ボールを蹴ったり、運動をたくさんしているので、1歳児といえ瞬発力があって痛いのです。これをよそのお友達にやったらたいへんです。母親から「ごめんなさいは?」と言われても、「お母さんが一緒に謝ってあげるから謝ろう」と言っても、一切、謝罪はしません。いつもの風景で慣れているのか、嫌いな私が「声をかけたことが悪い」と思っているのでしょう。しかし、これを許すわけにはいきません。

e0143522_11553255.jpgKが蹴りを入れる時も、手をあげて兄に向かっていくのも、いつも、Kの気持ちが言葉で表現できず、相手に気持ちが伝わらない時だということはよく分かっています。最近は、「じぃじと~、ばぁばと~、Kちゃんと~ぞうさん見たの~」と文章らしき言葉も発するようにはなりましたが、頭の中にはもっと、複雑な考えがあるのに、それがうまく伝わらないから怒るようです。そんなKの気持ちも分かるので、一日も早く、自分の思うことが表現できる言語力を備えさせたいと思い言葉を教えています。

2番目の子は、長子に比べて、気が強く見えますが、それは、自分の弱さや未熟さを隠すための虚勢でもあります。「Kは強い」と悪い行いも放置していると、大きくなってから本人が困ります。楽院にも小さな頃から、「この子は、2番目で強くて、大人がいっても、全然、ききません」と諦めモードと共に、「将来、大物になるかもしれない」という期待感を持って親御さんが育てられた子供たちがいます。

そういう子はうまくいっている時は良いのですが、自分が叱られたり、思い通りにいかないことが起きた時、不機嫌に怒るか、泣くかでしか自分が表現できません。かわいそうだなぁと感じることがあります。不利な状態に追い込まれても、そこから立ち直ったり、素直に教えを受け、他人の考えも受け入れることを知らさなければと思います。

1歳11ヶ月のKには、世の中には自分より偉いものがいて、従わなければならない時もある。また、1歳で無力であるからこそ、目上の人にかわいがられることを教えておきたいと思っています。なぜなら、子供にそうしたことを教えておいても、年齢と共にどんどん横柄になっていくのが子供です。「もし、教えなかったら・・・」と怖くなるのは私だけではないはずです。

思えば、長子のYも1歳から3歳にかけて、決して私が好きではありませんでした。遠巻きに見て、できれば声をかけて欲しくなさそうにしたものです。また、嫌がりながらも我慢をして私の膝に乗り、嫌な相手でも受け入れることを覚えました。Kのように、気にいらないからといって、蹴りを入れたり、「まぁちゃん、キラい」とはっきり言葉にはせず、遠慮があったものでした。長子と第二子の違いはこんなところにもあるのです。「Kちゃんも、その内、好きになるんじゃない。ボクも今はまぁちゃんが好きだからさ」。兄甥Yになぐさめられているのです。
by k-onkan | 2011-06-24 11:54 | 幼児 | Comments(0)

ピアノの練習は難しい

我が家は、両親も近くに住む親戚も皆、音楽を生業にしていたため、子供がピアノの練習をして違う音を弾こうものなら、誰かに「違う!」と注意されたものです。子供の頃は、それが鬱陶しいと感じましたが、周囲の大人にすれば、子供が違う音を出したり、間違ったリズムで滅茶苦茶に弾いたりすることにイライラして口を出したのだろうと思います。音楽という科目が国語や算数と違って、一般家庭では教えられない理由は、習ったことがある人しか教えられないということなのです。

e0143522_1243199.jpg先週の土曜日、全員がピアノを弾いた時のことです。甥Yが弾く姿を上級生の女の子たちが、怖いほど真剣な表情で見ていました。その目つきは鋭く、いろいろな感情が渦巻いていることが分かりました。他の子供の気持ちを代弁すると、「Yはうまく弾けるのは、当たり前」のはずです。なぜなら、楽院で生まれた子供であり、周囲には口うるさい先生がいっぱいいるのですから。その環境を考えれば、弾けてあたり前なのです。しかし、それが、自分よりも年齢が低い子であるから、内心、穏やかではいられないのでしょう。「自分だって、周りに適切なアドバイスをしてくれる人がいればもっと上手になるはず」という気持ちもあるのかもしれません。

ピアノは歌と違って、その場で臨機応変に対応しただけでは上手になるものではありません。日々の地道な訓練によって、指を強くすることで、速くなめらかに動くようにはなるものです。ピアノの練習と称して、ただ、最初から最後まで弾き飛ばすだけでは、何時間しても上手になりません。年齢が高くなったら、自分が苦手な箇所や、難しいフレーズを抜き出して、ゆっくりから、だんだん、速度を早くする練習をしたり、リズムを変形させるなども大事な練習ですが、子供には、それを自分で考えて工夫するのが難しいことのようです。今年の夏は、児童部の子供たちに、自分で工夫してピアノの練習をする方法を教えたいと思っています。

すでに、ご存知のことと思いますが、今年は恒例の尾瀬合宿を行なうことができませが、毎年、子供たちと日常生活を共にして、個々の長所や短所を理解することはとても貴重なことだと思っています。学校では経験できない幅広い年齢層の子どもと一緒に、コミュニケーションを取ったり助け合ったりして、何かをするのも、子供たちの成長には欠かせません。そんなことから、今年は外に出かけるのではなく、楽院の中でできる特別企画を考えています。午前中は、幼児部は音感授業、児童部はピアノ練習に重点を置き、学校の宿題などもさせたいと思っています。午後は、専門の先生をお招きして、合気道、造形、英会話、書道、絵画、ゲームなど、ご家庭ではできないことを予定しています。
by k-onkan | 2011-06-23 22:41 | お稽古事 | Comments(0)

習っていてよかったよ

水曜日の児童部の授業中、ピアノのレッスンから帰った甥Yが、「みどりの本、上がった!」と嬉しそうに瑠音先生に声をかけました。すると、「当たり前じゃない。何週間やっていたと思うのよ?」と冷たい返事。同い年のTくんが、「フッ」と声を出して笑います。きっと、Yの母である瑠音先生は「よかったわね」と答えると思ったのに、その予想に反していたため、思わず笑ってしまったのかもしれません。ピアノの曲は、毎日、きちんとさらっていても、先生の意図する課題を習得していなければ、何週でも同じ曲をさらい、それを習得することに意義があるのです。

e0143522_1220026.jpg甥Yは学校から帰ってくると、誰から言われなくても、自分から、国語と算数のワークをしてピアノ練習をします。こう書くと、Yがとても真面目な優等生だと誤解されそうですが、そうではありません。我が家では、子供が勉強をしたり、ピアノの練習をしたりするのは、大人が毎日、働くのと同じように、「しなければならない当たり前のおつとめ」なのです。

おつとめを怠ったりすれば、「お母さんだって疲れていても、Yのご飯を作ったり、教室に行って仕事をしているでしょ?子供だってしなければならないことがあるのよ。それが、自分のための勉強やピアノの練習なの。お母さんが疲れているからと言って、ご飯を作らなかったらいやでしょ?」。小さな頃から一貫して教えられていることなので、練習をすることは当たり前なのです。それでも、その日によって、練習の仕方が良い日もあれば、悪い日もあるのですが・・・。

よその家の子供に比べて、我が家の子供は「かわいそう」と思われるかもしれません。しかし、私たちは子供の頃に強制されたことで、後にありがたいと思う場面が結構あったものでした。甥Yは2年生なのでまだ理解していないと思っていたのですが、子供なりにありがたいと思っていようです。最近、木下先生が少し意地悪な質問をしました。「Yはたいへんだなぁ。学校から帰ってくると、すぐに勉強をして、ピアノの練習をして・・・」。すると、「ボクは、ピアノも合気道も水泳も習わせてもらってよかったと思うよ」と答えたそうです。私たちが子供の頃よりずいぶん、大人なのでしょう。ピアノをはじめ、水泳や合気道のおけいこごとを始めて5年。やっと、最近、習っているように見えつつあるのです。

*自分から取り組んでいるように見えるYですが、実は、ちゃんと家に帰ると、母の「今日は、合気道だから、その前に、勉強とピアノの練習を自分でやっておいてね」とメモが残してあり、100パーセント自立的に活動しているわけではありません。木下式の理論でいうと、大人が少し手助けを施す部分先導の段階なのです。
by k-onkan | 2011-06-22 22:19 | 児童 | Comments(0)

野球の応援に来てくださいよ

先週末、卒業生が楽院にフラッと遊びにきました。高校3年生の男の子3人です。小学生の頃は悪さばかりして、木下先生を本気で怒らせた少年が、青年になって懐かしそうに訪ねてくるのは威圧感があり怖いものがあるのですが、時々、ふと幼い頃の面影が見え、可愛く思えるから不思議です。

e0143522_972438.jpg今から15年ほど前、世の中は、小学校受験が最盛期でした。遊びにきたWくんとKくんも幼稚園時代、いろいろな勉強をして私立小学校に入った子供たちです。当時、「こんなにたいへんなことをして受験させなければならないのか」と疑問を感じました。しかし、子供たちが受験から帰ってくると、「こうした経験も子供には大事なのかもしれない」と痛感したものです。

自分の身体機能を思い通りに操るための運動も、指示行動や集団行動も、当たり前に学び吸収する上で必要なことでした。また、一見、無駄に見える問題集をたくさん解くという訓練も、単純作業を投げ出さないための我慢を教えることにつながったように感じます。小学校受験に向けて多方面から刺激を受けた子供たちが楽院に戻って、一番、実感したのは、音感授業における「自分の頭の使い方が上手になった」ことでした。また、わがままだった子が、自分を律することを覚えてきたりしました。結果だけを重視して子供の心に傷を残すような受験でなければ、これも良い試練なのかもしれないと感じたものです。

その後、子供に無理強いをしないのびのび教育が重んじられ、親もまた、のびのびとして、子供に何かを教えたりすることをしなくなったことで、その弊害が今、現れていると感じます。15年前なら、年中児ともなれば、当たり前にできたことが、今は、専門家の力を借りなければ改善されないほど、平素の運動能力が落ちています。その影響は音感教育を教える私たちにも多くあります。たとえば、音楽に合わせて行進することは、四肢が不自由でない限り、訓練を重ねれば誰でも自然にできるようになったのに、今は受験のための体操教室に1年ほど通って、やっと昔の子供のスタートラインに立つのが実情です。それを思うと、受かるか否かではなく、小学校受験のための努力が、未就学児の最後の砦といえるのです。

さて、一般に私立小学校からエスカレーター式にあがる子供たちの成績は、後に二極化するといわれています。このWくんとKくんたちはその上位にいるであろうことが、会話と知識から理解できます。成績だけがその人の評価全てではありませんが、勉強をすることで世の中のことに興味を示したり、学ぶ意欲を持ったり、大人として自信を持つ素地になると感じます。学校で勉学プラスアルファで何かを身につけた高校3年生は、人間として、こんなに面白くなるのだと感じました。

Kくんの学校は同学年に700人生徒がいて上位20人が医学部、100人が法学部に進学するといいます。「優秀な人は驚くほど賢く、とても太刀打ちできないけれど、自分も100人の中に入る努力をしたから、法学部にいく。就職率が高いから」。堅実な発言も見られ、社会に出る心の準備をしているようです。

Wくんは子供の頃から野球少年なのですが、今年の夏は、高校最後の勇姿になるので、「木下先生たちにもボクが野球をするところを見に来てほしい」といいます。野球部員になると、連帯責任が厳しく、部員が問題を起こしたりすると、チームも試合に出られなくなり、その厳しさは半端ではないそうです。本人は、「それが一番イヤだった」と言いますが、野球を通して「自分の行いが他人に迷惑をかけることもある。他人に迷惑をかけない行動をする」という責任感を身につけたのだと思いました。

そういえば、Wくんは、子供の頃に、よく木下先生から、「そんなに声の出し方が遅いヤツが、反射性が求められる野球が上手なわけはない」とからかわれ、その度に、真剣に怒っていたものです。そんなWくんからの招待なので、7月の予選はみんなで応援にいくことになりそうです。それを聞いていたKくんは、「自分は、学校の応援団のブラスバンドの指揮で予選に行くから、応援の応援に来て」といいます。小さな頃は、あんなに「楽院は、厳しくて、嫌い」と言っていたのに、自分が立派になれば、自信をもってその成長ぶりを報告にこれるのだ、それが子供の成長の証なのだと思ったのでした。
by k-onkan | 2011-06-21 23:05 | 名誉団員・卒業生 | Comments(0)