麻奈先生のブログ~木下式の子育て論~
by k-onkan
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作者について
木下式音感教育法認定講師
  木下麻奈
     
 木下式の基本は、幼児期に「躾・規律」を教え、高度な音楽基礎教育を施すことです。詳しくは、ホームページをご覧ください。http://www.kinoshita-onkan.com

イラスト:「ケイ&シュート」
 By ケンイチ・シライ
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器用さがマイナスになることも

先日、「曲が合格しないからピアノの練習をする気にならない」と言った男の子がいました。その子は頭もよく器用で、初見がよくきくのです。しかし、練習をしないため、最初に弾いたときのまま、進歩がありません。当然、先生は合格をくださらず、曲は進まないのです。さて、「卵が先か、鶏が先か」という言葉がありますが、ピアノの練習に関して言えば、「あがらないから練習しない」のではなく、「練習しないからあがらない」のです。

e0143522_11515196.jpg同じ年数、ピアノを習っていても、個々人の特質や性質は、ピアノの練習や演奏に表われると感じます。たとえば、私が子どもだったころは、現在4年生の甥Yより、初見もきいて指もよく動きました。私も甥も運動神経がよくないことは、共通していますが、私は小さなころからピアノや縄跳びをやらされ、手指の動きは改善された面があります。反して、甥は手指や体も動かすと、変なぎこちなさがあります。そのため、初めて弾く曲もとてもたどたどしく、「こんなに不器用で気の毒に」と感じていました。

しかし、最近、私は考え方が変わりました。確かに、私が4年生だったころと比べ、甥にはマイナス面もありますが、それを補うほどのプラスがあるからです。初見がぎこちない分、きちんと練習しないと、上手にならないため、毎日、決まった量の練習は必ず行います。もちろん、母親が週に1度くらいは「練習の仕方が悪い」と目を光らせていることもありますが、大人が監督しなくても日々の練習をごまかさずにするのが、Yの長所です。地味ですが、まっとうに生きるためには、とても大事なことです。

私は子どものころ、「練習したの?」と聴かれると、毎日、ピアノの本の違うページを出しておいて「やった、やった」と練習したふりをするような子どもでした。練習しないわりには弾けたため、ピアノの先生も「練習してこの程度なんだろう」と思われたかもしれません。

子どものころ、器用さだけで通り過ぎたことが、大人になって自分のマイナスとして降りかかっています。それは、やる気になったときはすさまじくパワーを出せますが、気分が乗らないと、すべてが億劫に感じることです。器用さに任せて、ごまかさずに、コツコツ努力できるYの方が、何かのときには力を出せるのかもしれない、最近、そんな風に思うのです。
by k-onkan | 2013-09-30 22:51 | お稽古事 | Comments(0)

叱られるのも才能かも!?

木下式は正しい発声を示せば、誰でも上手になるように考案されています。但し、幼児と大人では習得までに、要する時間が異なることを忘れないでください。幼児は、目や耳などの機能が鋭敏な分、良好な手本にすぐに反応します。中には、幼児であっても音程を真似ることが苦手なお子さんもいますが、彼らに共通するのは、とても幼いころから集団生活を始め特定の大人との1対1の関わりが少ないことも一因のようです。それでも、あきらめずに、訓練を反復していれば、少しずつ変化していくのです。

e0143522_13595257.jpg反対に大人になってからこの発声を身につけるのは、とても難しいものです。大人は幼児のように鋭敏な耳を持っていないのに、知識が豊富にあるため、「できないことが恥ずかしい」と思ってしまい、素直に受け止められないのかもしれません。中には、「なんでできないの?」「難しい」と投げ出そうとする大人もいます。しかし、子どもにこの教育によって音感を備えさせたいと思うなら、できなくても、できるようにすることは最低条件です。子どもに「その声は違いますよ」と言ったときに、適切に「正しい手本」を示せないのでは、説得力がないでしょう。

私も、大人になった今も、書道、話し方、英語やピアノと手習いを断続的に続けていますが、知識や肩書き、年齢を忘れて、素直になる必要を感じます。大人は、こうしたプライドによって、素直に師の言葉を聞けなくなりますが、謙虚な気持ちなく、ものを学ぶなら、自主学習で良いのです。

私が最近、気をつけているのは、自分に「できないこと」があるとき、先生の教え方が悪いのではなく、「できない自分が未熟なのだ」ということを忘れないことです。こうした謙虚さを忘れて「もっと、わかりやすい方法で教えて欲しい」と考えると、何も習得できなくなってしまいます。

私が大人より幼児を教えることが好きなのは、手間がかかっても、余計なプライドがなく、何事も素直に吸収するからです。特に、年齢が低いほど心が通います。3歳から教えた子どもは、私がどんなに厳しいことを言っても、その厳しさの裏にある愛情を感じているようです。反して、年齢が大きくなってから教えたお子さんには厳しいことは言いません。幼いころに、愛情のある厳しさを経験していれば、「厳しいことを言っても、よくしよう」という心を汲み取れますが、厳しいことを経験していない人は、ただ拒絶反応を示し、こちらが、相手のためを思って叱ることも逆恨みをされることを、長年の経験で学んだからかもしれません。叱ってもらえるうちが花といいますが、最近は、素直に叱ってもらえることも、教わる際の資質の一つかもしれません。
by k-onkan | 2013-09-29 13:58 | お稽古事 | Comments(0)

お母さんたちのイジワル!?

4歳の甥Kと幼稚園から帰ってきた瑠音先生が、「今日、幼稚園の先生から「Kちゃんはお掃除の時間、一人で怒っていました」と言われた・・・」とKに聴こえるように悲しそうに私に報告しました。先生が直接、「Kくんもお掃除してください」と言っても動かず怒っていたので、「どうしたの?」と聞いてくださると不機嫌そうに「足が痛い」と言って絆創膏を貼っていただいたようです。

e0143522_23212013.jpg瑠音先生は、「足が痛いなら、自分で先生に言わなくちゃ!一人で怒っていても、誰も分からないんだから」と諭すと、「怒ってないもん」。「でも、先生は怒って掃除をしなかった、って言ってらっしゃったわよ」「何も(片付けるものが)無かったんだよ」「それは、Kちゃんが怒っている間にみんなが拾い終わったからでしょ?」「違うよ。怒ってないよ」。4歳にもなると言い逃れも巧みになります。

「怒っていない」と言い張るKに、私と瑠音先生は少し意地悪をしました。「アイアイ」の替え歌で、「Kちゃん、Kちゃん、おこりんぼだね」と合唱したのです。最初は、恥ずかしそうにしていたKですが、いつまでも歌い続ける私たちの態度にプライドが傷ついたのでしょう。「もう!お母さん」と瑠音先生にこぶしをふりあげ、「エイ」と叩きました。

「コラ!人を叩いちゃいけない」と叱られました。少しかわいそうになったので私は助け舟を出しました。「Kちゃんは、怒りん坊の歌が嫌で怒ったんでしょ? それでも、人を叩いちゃいけないのよ。まず、「そんな歌を歌わないで」って口で言わなければいけないのよ」。

大人が二人で子どもをからかって嫌な思いをさせることが「かわいそう」と思う人もあるかもしれません。しかし、子どもの世界はもっとシビアです。どんな理由があっても、みんなと一緒に行動しない子どもがいたら、集団でちゃかしたり、からかったりするはずです。大勢で一人をからかうのは、良いことではありませんが、やるべきことをやらずに、ふて腐れて、その上、からかわれたからと言って、相手に手を出したら、悪いのはKになります。子どもの社会で、悪い子のレッテルを貼られないように、家庭で練習しているのです。

「いやな歌だから怒ったのかもしれないけれど、そもそも、そんな歌を歌われるのは、幼稚園で怒って掃除しなかったからでしょ? 怒りん坊の歌はもう歌わないから、Kちゃんも叩いたことは、「ごめんなさい」をしなさい」。最初は、プライドが傷ついて、ごめんなさいをいえませんでしたが、聴こえないほどの声で「ごめんなさい」と口にしました。

負けず嫌いのKは、これから、外でどんなことがあるか分かりません。家庭でいろいろな疑似体験をして、お友達に簡単に手を上げないようにしなければと思っています。しかし、相手が手を出したら、ただ、やられているのではなく、自分の身を守ることも教えておかなければと思っています。

子どもの中には、小さい頃から大切に保護され、親御さんに守られ、嫌な思いをしたことがないまま成長する人もいます。こういうお子さんは、負の経験をしていないので、成長してから、自分以外の気持ちを想像することができないことがあります。

人は、良いことも、悪いことも、自分が経験したことを基に考えるものです。傷つけたくないからと、嫌な目にあわないでいると、想像力が乏しくなります。本当に優しい人は、自分もつらい目にあった経験によって他人に優しくできる人です。私たちが甥たちを鍛えることを意地悪!と思うか、優しさだと思うかは、甥たちが、大人になってから分かるはずです。
by k-onkan | 2013-09-28 23:22 | 幼児 | Comments(0)

親であることに喜びを持って

脳科学の見地から子どものお稽古ごとに、ピアノやそろばんなど指先を使うものがいいと言われています。これは手指を使うことで脳が発達するからです。しかし、次々と開発される文明の利器は、結果的に人間の運動能を損なっているようです。

e0143522_21562188.jpgたとえば、パソコンや携帯電話のメール機能では、「あ」と一字打ちこむと、そこには「あなた」「ありがとう」「明日」「朝日」などの単語が並びます。また、漢字もいくつかの候補が表示されるため、辞書を調べる必要もありません。しかし、目で見て一瞬、確認するのと辞書を開いて覚えたものとでは、記憶の度合いが異なるのです。他にもタブレットのパソコンで自在にお絵描きができるソフトがありますが、画用紙やクレヨン、絵の具を用意したり、濃度を確かめながら絵の具を混ぜるなど、無駄に見える作業が手先を動かしたり、感覚を鍛えていたはずなのです。

外にでれば、歩く歩道や自動ドアなど危険がないように安全装置付きの機械がたくさんあります。私たちは運動機能だけでなく危機感も失いつつあります。人とのコミュニケーションは声を出して話すより、パソコンやスマートフォンのソフトを使ったチャットが好まれます。喜怒哀楽は絵文字やスタンプで表し、相手の目、表情、雰囲気から気持ちを推し量る勘も働かなくなってきました。

時代の流れによって今後も便利なものはどんどん開発されていくでしょう。わが子にだけ使用を禁じてもやがて手にします。文明の利器に身体機能を奪われずに、上手に使いこなすためには、私たち大人にしっかりした考えや工夫が必要なのです。

さて、こうした便利なものが増えているからでしょうか。最近、幼い幼児たちが、ますます、受身になっているようで気になっています。もちろん、私たちが子どもだったころも大人たちから心配され、「目的意識がない」「希望がない」「新人類だ」と言われたものでした。しかし、一つ違うことがありました。それは、私たちはまわりから「認められたい」「楽しいことをしたい」という欲望はあったことです。

残念ながら、今の子どもたちは、自分から何も求めなくても、楽しいことが垂れ流し状態です。その一つの原因は、便利なものの発達かもしれません。自分から求めなくても、何でも手に入ることで、人は無気力になってしまいます。

私たちも無気力な時期がありましたが、「これでよいのだろうか」という漠然とした不安や恐怖は常にありました。今の子どもに感じられないのは、そうした不安や恐怖を想像する力でしょう。

何より気になるのは、子どもを持つ親御さんが子どもの教育や未来について、「親の責任ではない」「なるようになる」と他人ごとのようであることです。私たちが子どもだったころ、「親」という人種は子どもに対して熱心さがありました。しかし、いろいろな教育をした割には「この程度の結果にしかならなかった」と考えるから、わが子の教育にも夢がもてないのかもしれませんが、いろいろな教育をして「この結果」であるなら、教育をしなければ、もっと悪い結果になることもある、このことを忘れてはならないと思うのです。便利なものが増えて、子育てを支援するものも増えました。しかし、親でいられることに喜びを持って、親として、大人として、すべきことをしなければと思うのです。
by k-onkan | 2013-09-27 21:56 | 子育て | Comments(0)

左右が分からないとたいへん!

最近、とても気になっていることがあります。それは、子どもたちが「右、左」が感覚的に分からないことです。小学校低学年の子どもに「右に~を書いて、左には~をして」と指示をすると、一瞬、躊躇するのです。楽院に通う子どもは、ほとんど小学校受験を経験しているため、幼児教室で「右、左」の訓練を受けたはずです。しかし、一過性の問題として取り組んだだけでは感覚的な理解まで到達していないのかもしれません。感覚的な理解とは、「右」と言われたら瞬間的に「右手」があがるほど、体で覚えているという意味です。

e0143522_1163960.jpg集団活動をする上で、「右、左、上、下」が分かることがとても大事です。そういう我が家も、先祖代々、「右、左」が分からず苦労しました。父が子どものころは、「茶、箸」と習ったといいます。「茶碗を持つ手が左」で「箸を持つ手が右」という意味で、軍隊に入って左右が分からないと「茶、箸(左、右)」と言って教えたといいます。

さて、昔は、左利きを嫌い、徹底的に右に矯正しました。それによって、「茶碗を持つ手」「箸を持つ手」は決まっていました。しかし、最近は、「左利きは矯正せず、そのまま、使わせるのが良い」ということで矯正しないのがふつうです。左利きのお子さんにとって、利き手で鉛筆を持ったり、はさみを持ったりできるのは、行動がスムースになり、たいへんよいことです。しかし、その反面、混乱もあります。「右」といわれたときに、左利きのお子さんは、左手が出てしまうのです。ここをきちんと、整理して教える必要を感じます。

幼児期に、「右、左」を確実に教えておくことは、小学校受験をする、しないに関わらず、とても大事なことです。これまでも、お母さん方には「ご家庭で、右、左を教えてください」とお願いしてきました。しかし、残念ながら、家庭では「何かを確実に教え込む」ことはできないことがわかってきました。一般のお母さんのいう「教える」というのは、「1回伝えること」のようですが、木下式の言う「教える」は、毎回、繰り返し、何度でも同じことを教えて、10回の内1回も失敗せずに、正解するまで継続することだからです。

そこで、最近、苦肉の策を思いつきました。それは、木下式の身体的動作と表現(子どもたちは体操と呼ぶ)をするときに、必ず、「右手、左足」を上げさせて確認することです。年少の頃には、「右手はこっち、左足はこっち。先生が『行進』と言ったら、必ず、右手左足から出すのよ」と毎週、足に触れて確認した後、ピアノに合わせて活動させています。これだけ、毎週、言い続ければ、年長になるまでに、右、左の感覚は確実になるはずです。

こう書くと、「もっと、早くそうしてくれたら、左右が理解できたのに」といわれるかもしれませんが、以前は、「カスタネットを持つ手が左、叩く手が右」を教えておけば、楽院以外の場で教わることと両々あいまって、誰もが右、左が分かるようになっていったものでした。

そして、身体的動作と表現で、振り上げる手を右に統一しなかったのは、子どもたちがリズムに合わせて、足を上げて行進したり、駆け足をすることに対して「軍隊のようで怖い」と評価されたことがあったからです。そのため、子どもたちが、振り上げる手は、自然に出る方でよいと、木下先生は言ってきたのです。しかし、これほど、各個人の自由で良い世の中になると、「必ず、右を出そう」と教えなければ、「左右」の共通の概念は生まれないようなのです。幼稚園、保育園の先生も身体的動作と表現の訓練で、左右を確認することをお勧めします。また、左右を確実に教える良い方法があったら、ぜひ、教えてください。それほど、左右が分からない子どもたちのために、私は真剣に悩んでいるのです。
by k-onkan | 2013-09-26 23:06 | 教育 | Comments(0)

親にしかできない教育

以前読んだ「自閉っ子のための道徳入門(花風社)」という本を読み返す機会がありました。この本は、療育の世界では当たり前の、「障害があるから、できないのが当たり前。社会が理解して受け止めて」という流れを、障害があっても、改善できることは改善して、大切なわが子が社会の一員として、共存できるようにしようという良書です。

e0143522_10155348.jpgさて、当たり前のことを当たり前に教え、社会に参加できる人間に育てることは、発達が定型のお子さんを育てる上でも、忘れてはならないことと感じています。

最近の幼い子どもを教育する現場では、これまで以上に、「親が手をかけて教えること」が当たり前でなくなったことを心配しています。たとえば、子どもに何かできないことがあっても、親御さんには「自分ではお手上げで、誰かになんとかしてほしい」という気持ちが強いのです。お母さん方も、仕事や家事に忙しいことは分かりますが、やはり、子どもの親として最低限、教えなければならないことは家庭でしか教えられないことを忘れてはいけないと思います。

もし、「私は仕事が忙しくて・・・」とか「どうしたらよいか分からない」というなら、「教え方を教えてください」「助けてください」という謙虚な気持ちが必要です。「私は仕事で忙しいのだから、できる人がやってくれたらいいじゃない」と他人や社会に、丸投げをしたり、「もっと社会が~をして」と要求ばかりしていると、子どもも「自分ができないのは他人のせい、社会のせい」と考えるようになります。子どもや親の言うとおりにはしませんが、する通りにするのです。

親御さんが年を取ってから、わが子に社会的に迷惑をかけられたり、経済的に独立できず一生、支援しなければならないことがないように、お金をかけて特別な教育をする前に、人間としての当たり前の教育―引きこもりや犯罪者やしないための教育―が必要です。これだけは、どんなにお金をかけても、他人任せにできることではなく、毎日、暮らす家庭でしか与えられない教育だから、親御さんの努力が求められるのです。

こうしたきついことを、声を出して言う人は、世の中に少ないと思いますが、私は、大勢の子どもたちが幼児から成長して、大人になるまで見てきました。その経験から、分かることがあります。それは、家庭にきちんとした教育、ぶれない考えがないと、どんなに偏差値の高い学校に入学させて、立派な就職先を見つけたとしても、後で必ず、親御さんにツケが回ってくることを見てきました。

最近、学校の先生をはじめ、警察官、官僚など、いろいろな人の不祥事が、毎日のようにニュースで流れます。せっかく、努力して有名な学校を卒業させた結果が、社会に出て犯罪者では、目も当てられません。親御さんの仕事は、良い学校に入れるための教育ではなく、社会に迷惑をかけずに自活する教育を一番に考えなければと思うのです。
by k-onkan | 2013-09-25 23:13 | 教育 | Comments(0)

耳を使って聴きなさい!

子どもと付き合っていると感じることがあります。それは、一般的に大人は「幼児が自分から正しいことを身につける」とか「いつか自然に分かるようになる」と信じて、何も手を打たないのではないかということです。実は、子どもは、大人が正しいことを伝えて教えなければ、知らないことはいつまでも知らないままなのです。特に、年齢が幼い子どもだからこそ、相手が大人であれば失礼に当たるような本当のことも言わないと通じないことがたくさんあります。

e0143522_18305572.jpg木下式は、幼児たちに正しい音程が自然に身に付くように、指導者の模範唱や模範口語で手本を真似れば良いように考案されています。しかし、幼児自身にやる気がなかったり、自分から意欲的に学ぼうとする気持ちが無かったりすると身につかないのです。子どもがやる気になるのを待っていると、大切な時間を逸してしまうことを忘れないでください。

最近、いくら模範唱を聴かせても一向に直そうとしない幼児が増えています。以前は、「違う声よ」と言えば、どんな子どもも、自分から「直そう」とする様子があったのですが、今は、「違う」と指摘しても、同じことを続ける子どもが多いのです。それだけ、「指摘されたら直す」という習慣が一般から失われているのかもしれません。

楽院は、「最近の子どもの傾向だから」と放置しない教室なので、どんな方法を使っても、正しい声を自分から出すように仕向けます。最近、年少クラスでも、子どもたちが、一向に反応しないため、「みんな、耳はある?」と聴いてみました。「ある」というので、「耳は何のためにあるの?」「聴くため」「みんなの耳はちゃんと聴こえている?」というと「聴こえる」といいます。「聴こえる耳を持っているのに、違う声を出すのは、耳を使っていない」と教えました。「ちゃんと聴いて声を出しなさい」。すると、3歳児であっても、意識して正しい声に変換できるのです。

こんなことを書くと、耳が不自由な人の団体から、「差別だ」とクレームが来るかもしれませんが、幼児に「耳を使いなさい」と教えなければ、意識して耳を使うことを知らないのです。こういうことを言うから、生徒から「麻奈先生の欠点は強いて言えば、失礼かな、ということです」と作文に書かれるのだと思います。が、さすがに、私も初対面の大人の方に、「耳を使ってますか?ちゃんと聴いていますか?」などは言いません。大人同士には配慮すべきことがたくさんありますが、それを、幼児との付き合い方に、持ち込むと、子どもに正しいことを理解させるのが、難しくなることを忘れてはならないと思うのです。
by k-onkan | 2013-09-24 23:31 | 教育 | Comments(0)

若者よ!頑張れ!

連休の最終日、現在、大学生の男の子3人が、子どものころ仲良くした先輩と久しぶりに会いたいと、私のところに卒業生がやってきました。先輩のAちゃんは、運動神経がよく、男の子と対等にキャッチボールや卓球ができるボーイッシュな女の子で、少年たちのリーダー格でした。当時、反抗期で木下先生の言うことをきかなかった少年たちですが、Aちゃんから「木下先生の指導をまじめに受けない人とは遊ばない」と言われて泣きながら帰った思い出があるほど、女親分を慕っていました。

e0143522_13412527.jpgAちゃんは大学を卒業した後、自分の思い通りの人生にならず、「楽院の卒業生とは誰も会いたくない。誇れるものがない」と言っていました。しかし、東日本大震災を経験して、「いつ何があるか分からない。会いたい人には、会えるときに会っておいた方が良い」ということで、最近、私のもとによく顔を見せるようになっていました。そして、少年たちと会うことになったのでした。

久しぶりに会うと、自分の人生が輝いていなくても、目標が達成できていなくても、悩み事があっても、子どもたちは、童心に返れるようです。そして、「何年も会っていなかったのに、基本的なことは、子どものころと全然、変わっていないんだね。落ち着く・・・」と言って、みんなで人生ゲームをして遊んでいました。

大人になってから出合う人間関係には、利害関係があったり、遠慮があったりで、自分に格好をつけて良いところだけを見せるものです。しかし、幼児期、児童期に、そういう計算がない分、本質的な長所、短所を知っています。その素の部分は、何年経っても変わることがないことが、分かって、子どもたちは安心したようでした。

子どものころから努力家で優等生だった子は、大人になっても変わらずしっかりものです。小さいころから優しい子は優しいままですし、お調子ものは、どんなに格好つけても、幼馴染の前ではお調子ものになってしまいます。

自分の希望通りに就職できなくて、よかったのかもしれないって思う。こんな自分で、就職も願い通りになっていたら、間違いなく、人生をなめて、大きな失敗をしたと思うから。親分として、彼らに恥ずかしくないように、これからを頑張る」。Aちゃんが、ポツリと言って返っていきました。

若い頃は悩みが多いのが当たり前です。勉強で悩んだり、人との関係に悩んだり、自分の気持ちや、将来について悩んでいいのだと思います。若いころに、たくさん悩んで失敗するから、大人になって、それが味になるのだと思います。人生の通過点で、「偏差値の高い学校を入学(卒業)した」「有名企業に就職した」ということも、評価は受けますが、人生、それだけが全てではありません。一番、大切なことは親がいなくなったときに、自分の力で考え生き抜けること、そして、自分の人生を幸せだと思える人間になることなのかもしれません。

もう若くなくなった私は、若者たちの悩みを聞きながら、「今は、たいしたことない悩み」と感じることが、20代のころは自分も真剣に悩んだことを思い出し、年齢を経て、図太くなったことをありがたいと思いつつも寂しく感じ、そして、若者たちから、パワーをいただいているのかもしれません。
by k-onkan | 2013-09-23 13:40 | 名誉団員・卒業生 | Comments(0)

すべては音楽を教え易くするために

楽院の小学生の授業は拘束時間が長いため、楽典のプリント、発声、ピアノのレッスンの合間に、学校の宿題をさせたり、作文を書かせています。最近は、メールなど便利なものが増えてきちんと文章を書いたり、会話をする機会が減っているため、音楽指導をするうえで、お互いに理解しあえないことが多くあり、国語力や会話力を育てる必要性を感じるのです。最近は、私が「話し方教室」で習った「相手の立場で考えて話す」ことと、「論理的な文章」を書かせる練習をしています。

e0143522_2173319.jpg昨日のタイトルは、「楽院の先生を誰か一人、選んで、よその人に紹介する」というものにしました。このテーマであれば、子どもが先生の助けを借りずに、内緒で自分で仕上げることができるはずです。私は、「どの先生のことも本当のことを書いて良い」と知らせました。ただし、読むのは、私たちなので、「こんなひどいことを書くなんて、憎らしい子ね」と恨みをかって、後でしつこく責められないように、考えること」と伝えました。

作文というものは、優等生的に耳に優しいことだけを書くと、よそよそしさが伝わってきて、あまり、面白いものではありません。文章の行間に、それぞれの子どもの性質や私たちとの距離感を図れるように感じます。

ぼくが通っている音楽教室のまな先生について書きます。まな先生は、同じことを二回、言わせると怒ります。怒ったときのどなり声は、とても大きくて教室中に響き渡ります。(3年男児)

私は木下まな先生について紹介します。まな先生は、木下音感楽院の先生で、重に小学生の歌唱指導をされています。先生は生徒のことをよく見ていて、その人にあった接し方、指導の仕方をされています。また、どんなことにも臨機応変に対応することができ、ときに、やさしく、ときに厳しくなります。先生は、たとえが上手です。「黒くしてというと真っ黒にして、もう少し白くというと真っ白にしては駄目です。ちょうどいいところで声を出しなさい」などです。欠点は、強いて言うなら、ちょっと失礼かな、ということです。みんなそこまで傷ついてはいませんが、ものすごいです。以上、まな先生についての紹介を終わります。(6年生女児)

私は優等生タイプの無難な作文より、子供が心の中をきちんと表現する作文を評価しています。どちらの作文も、子どもの言う通りで、目を通した瞬間、大笑いをしてしまいました。来週、「感情が伴っていて本当に面白い作文だった」とコメントしようと思っているのです。

子どもの語感が乏しくなって、文章力がなくなって、指導が難しくなってしまったのはまぎれもない事実です。しかし、それでも、これまで通りに音感指導をするために、作文指導でも、数の数え方でも、子どもが知らなければならないことは何でも教えておこうと思っています。それが、音楽を教えやすくする一番の近道だからです。
by k-onkan | 2013-09-22 23:14 | 児童 | Comments(0)

おろかだから分かること!

学生時代の友人に久しぶりに会う機会がありました。若いころの友人は、お互いに未熟で欠点や失敗を多く知っているため、穴があったら入りたくなることも多くあります。自分から進んで会うことはしませんが、自分を省みるために、たまにはお誘いを受けています。

e0143522_1394580.jpgある友人と会話をしているときのことです。「自分たちも若いころ、おろかなことをたくさんしたから、若い人に何も言えない」と言うのです。私は大勢の子どもに、「これがいい。あれは、辞めたほうが・・・」と教える仕事をしているためか、この発言に少々、抵抗を感じてしまいました。

確かに、私も、友人と同じように、若い頃はおろかだったころでしょう。無責任な行動もたくさんしました。自分本位で身勝手なところもありました。人に対する感謝も足りなかったでしょう。そんなときに、「そんなことをするとは何事だ」「調子に乗るな。人間は一人で生きているのではない」「考え違いも甚だしい」等、両親や親戚、人生の先輩から説教をされたから今の自分があるのです。

「自分もおろかだったから言えない」という言葉は、大人としては無責任さを感じます。自分が先輩たちからしていただいたことは、人生の後輩たちに恩を返すべきだと思います。若いころは未熟だったからこそ、それを改善していただいたように、次の世代に伝えなければと思います。

反対に若い人も、大人の世界の常識に対して、「大人はすぐ決め付けるけれど、やってみなければ結果は分からない」と、すぐに反抗するのはあまり賢くないと感じます。大人がいう「常識」は、長年、大勢の人々が体験して、失敗したり、成功したことから積み重なって生まれたものです。

大人の言葉だからと何でも鵜呑みにすべきではありませんが、人の言葉に耳を傾けながら、自分にとって何が最良であり、どの考え方が自分に適しているからを自分で考え、自分の進む道を自分で決められる人になって欲しいと思います。自分だけの考えでは、一つしか答えが蜜かなくても、大勢の人の考えや価値観を知って耳を傾けることで、若いころのおろかな自分が少しずつ脱皮して大人に成長するのだと思うのです。友人、先生、親戚、友達の親御さん、いろいろな人と関わることで、多くの人生経験を学んで欲しいと思います。それでも、足りなければ、本に出てくる登場人物や、映画の主人公の考えや意見からも学んで欲しいと思います。どうか、自分ひとりの身勝手な考えで、不幸せな人生を歩まないで欲しいのです。

若いうちは、未熟でいいのです。それが若者の特権なのかもしれません。しかし、大人になって年齢を重ねたら、他人のことは何も気にしないような生き方は、ただ、無駄に時間をつぶすような生き方は、自分が関わる子どもにはしてほしくないのです。年を取っても、他人の役に立ち、たとて、小さなことでも、目を輝かせて社会と関わりを持てる大人になって欲しいのです。そして、自分が未熟だったからこそ、若い人に、きちんと物を言える大人になって欲しいと思っているのです。
by k-onkan | 2013-09-21 23:38 | Comments(0)